解離性障害の日々(闘病記録等)

思ったこと、関心事、気になること、病気のことなどをメインに日々つらつらと書いていきてたいと思っています。

大義名分や生き甲斐

こんにちは。

寒さもまだまだ続きますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか(^^)

 

コロナも第五類に下がるとは言え、熱や喉や鼻をやられたりするようですので

しんどいのはしんどいですよね。私の周りでもコロナ感染者をよく耳にします。

 

 

 手洗いうがいをしても、どれだけ気を付けていても感染する時はしてしまうし、感染してももう仕方の無いところまで来てしまっていますよね。

 

皆さんもインフルエンザやコロナや風邪やと、気を付けて下さいね。

 

毛布を膝に掛け珈琲を持っている女性

では、早速ですが、本日もブログを書いていこうと思いますm(__)m

 

今回のテーマはどこに着地するのか分かっていません(;^_^A

 

ですが、頭のモヤモヤとしたまま考え思い巡らせていることを書いていこうと思います(^^)

 

 

自分の為に生きた方が幸せなのか?

私はよく、「自分の為に生きた方が幸せなのか、人の為に生きた方が幸せなのか」というよう問いを一人で悶々と考えてしまうのですが、この考えも何年もかけて事あれば考えていたので、結構熟されてはいると思うのですが。

 

私“自身解離持ちだから”という点も考えの中に加味されてしまっているようで申し訳ないのですが。。。

 

そこは申し訳ございませんが、このまま解離持ちの頭のまま考えていることを纏まってはいませんが書いていこうと思いますm(__)m

 

結論:“私以外の為”に生きた方がパワーの出方や源が無尽蔵のように感じる

どのような切り口から書いてこうかと悩みましたが、話が脱線して戻って来れなくなる恐れがあるので、先に結論を書かせてもらいますが…。

 

私は断然「“自分以外の人の為”に生きた方が幸せに生きれる」と思っています。

 

確かに、“自分を満たす事”では大切ではあるのですが、やはり色々体験をしてきて思うのですが、やっぱり人は自分以外の人の為に生きた方が幸せになると思うのです。

 

また、結論のところにも書かせて貰っていましたし、感覚の問題になってくるし、私だけに起こることなのかもしれないという前提はあるのですが。

 

どうしても私は“誰かの為”に生きた方が“力の出方”、もしくは“力の源の差”をかなり大きく異なるように感じるのです。

 

自分の為だけに生きようとすると、力もそれくらい小さなものしか出てこない気がするし、誰かの為も含めると、自分の為だけの時よりも結構大きな力を使わせてもらえる気がするのです。

 

力の出てくる場所が違うのか?と、思う程、誰かの為を含んでいる方がスタミナだったり何かパワーの大きさも異なるように感じるのです。

 

30歳代辺りまでは

でも、私自身悩んだのは30歳代までは「自分の為に生きた方が楽だし幸せだよ」と、思うこともあると思うし、もしかすると結婚とかせず独身の人ならば、大半の人が“自分の為に生きた方が楽しいし幸せ”って思っているのかな?なんて思うことがしばしばありました。

 

20代とかは思う存分自分の為に生きた方が良いのかな?なんて思ったりもします。

 

なので。20歳代辺りまでは自分の為に生きても、私は否定はしません。

 

でも、高尚なのはやはり、「自分の為にもなり、人の為にもなってる」ということが、力の出方もですが、より良く生きられると思っています。

 

自分の為だけに生きるとて、20代まではまぁ許されても40歳近くにもなると、「私何してるんだろう?」と、虚無感に襲われると思うのです。

 

40歳を過ぎても尚、自分の為だけに生きて幸せだ!と胸を張って言える人がいるならそれはそれで良いですが、どう考えても虚しくなるような気がするのです。

 

人は人との関わりの中で、社会の一員として

どうしても私は人は人との関わり合いにおいて存在している生き物だからなのかなのか、一人で楽しむよりも二人の方が二倍幸せになれる気がするのですよね。

 

皆も同じ感覚なのではないのかな?と、思うのですが…。

 

人が悲しんでいるとこちらまで悲しくなってくるし、喜んでいるとこちらまで喜びに満たされますし。

大人の手のひらに乗せる子どもの手

 

しかし、自分の感情を捨てて人の為だけに生きると

これはこれで問題だと私は思っています。やはり、自分の感情が喜ぶことをするというのは無いと人の為になんて動けません。“人の為且つ自分の為になること”が一番幸せに過ごせるのではないかと思うのです。言い換えると“自分が納得した上で人の為に生きると

 

あくまで持論なので「こういう人もいるのだな」程度で思って貰えたらと思いますが。

そして、

自分が納得した上で、人の為に生きると

自分が納得した上で、人の為に生きるとより幸せに生きれると思っています。勿論苦労も大変な思いもするけれども、その分、充実感、充足感に満たされるし、良い人生だったとより満たされると思っている。

 

マズローの5段階欲求のように、自己の生存の欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求などを超えてから自己実現に至るということであるので、私の持論が全員に当てはまる訳ではないと思う。

 

でも、それでも私は大義名分のように、“生き甲斐”のようなものを持っている人は最高に充実した人生を送れることになるのだと思うし、老人になってからでも、次から生まれてくる社会の次の人へのバトンタッチとして、生まれてくる子供たちのことを考え、自分のことよりも、後者のことを考えてくれている人の方が、生き甲斐までいかなくても、何か満たされるものがあると思うし、私が老人になってから、「自分自分」と良い歳になっても「自分」のことしか見れていない人にはなりたくないと思っている。

 

同じ地球に縁あって

同じ地球に縁あって生まれてきて、そして日本という中に生まれ育ち。

 

自分だけで完結するよりも、自分の永遠の中の一部であって、“自分もその中の一員”と、思って生きる方が死が怖くなくなりそうだし、最後の最後まで何か出来ないかと、出来る事が見つかりそうな気がする。

 

なので、自分自分と、自分のことだけに執着して生きるのは何か違うと思う。

 

また、大義名分まではいかなくても生き甲斐も見つけておきたいと思う。

 

なかなかマズローの5段階欲求のように、自分の生命の安定などがあってからこそ言えることにはなってくるが、余裕が出来たら、生き甲斐のようなものを持っておきたいと思う。

 

そして大義名分や生き甲斐のようなものを持っていると

これらのものを持っている人に勝る物はない、というか私の憧れである。どんな生き方をしても良いが“大義名分”や“生き甲斐”のような何か“これだ”と、思うものを見つけていたい。

 

その為にも、普段から「何なら自分は力が出るか」を、考え、「こうしたい未来」、「こうなったら良いなと思う世界」「理想」を、考えていきたい。

 

これらを考える時に「自分に力が湧き上がってくるもの」を基準にして考えたいと思っている。本当に叶えたいものであれば、力も無尽蔵かのように湧き出てくる。

 

だらだらと、生きたら一瞬で時は過ぎてしまうので、「自分の理想の世界って何かな?」、「どんな風になったら良いかな?」なんて思いめぐらせアンテナを張っておけば吸い寄せられるように何かをキャッチできると思っている。

 

ボーっとしていないで普段からアンテナを張っておきたいと思う。

 

さいごに

思考が定まっていないまま、どこに着地するのか分からないまま書かせて頂いたので、読みにくい文章になってしまって申し訳ないと思いますが・・・読んで下さりありがとうございました。

ケヤキの木と田園