解離性障害の日々(闘病記録等)

思ったこと、関心事、気になること、病気のことなどをメインに日々つらつらと書いていきてたいと思っています。

私のお豆腐メンタルから学んだこと

はじめに

こんにちわ。

突然ですが、皆さんは自分のしたことにクヨクヨしたり、言いたいことが言えなかったり、笑いたくないところで笑ってしまって愛想を振りまいてしまったりして後悔したりすることはありますでしょうか?

 

私自身、物っ凄く傷つきやすく、人が何も感じないところで物凄い心はダメージを受けていたり、心の昇華をまだしきれていないまま引きずって立て直せられないよ、ということがしょっちゅうあります。もろ、お豆腐メンタルなんですよね。

 

今で言うと、恐らく“繊細さん”にがっつり含まれてしまうと思います。(;^_^A

 

しょうもないことに気が向かってしまったり、本当刺激が強すぎて処理するのに、時間が掛かったり。

 

皆さんはそんなことはないでしょうか?

 

もし同じような人がいたり、何か引っかかったり、興味関心を持ってもらえましたら、読んで頂ければ、と思います。

 

メンタル弱点

豆腐メンタルの持つべき武器

今でもまだまだ気になるってしまうこととかはあるのですが、一つ弱い私のメンタルの「武器になる物が分かった!」と小さな武器ではありますが、思ったことがあるので、今回はそのことについて書いていこうと思います。

巨大な武器を掴む人もいるし、なかなか掴めない人もいると思いますが、何となく意識するだけで、ある程度は今よりは楽になるので宜しければ参考にしてみて下さいm(__)m

 

持つべきものは“目的”

直球でいうと、それは「目的を持つ」と言うこと。言い方を変えれば「目的を明確にする」でも良いと思います。

 

これはお豆腐メンタルの私が生きてきて、“役に立った”と思う物です。

 

合唱コンクールの伴奏やピアノの発表会の時も。

バスケで県ベスト4のフリースローの時も。

試験などの時も。

 

 

また逆に、目的が無かったがために凹んだ場面はほんっとうに星の数ほどあります。

 

目的の有無で天と地ほど受ける影響は違う

こんなに人生を失敗してしまった多きな理由は、“目的が無かったからだ”と、言い切ってしまっても良いのではないかと思う程、この“目的の有無”は「私を助けてくれるか」、「助けてくれないか」また「苦しい思いをすることになるか」、「苦しみをスルーできるか」など、私の人生すべてに影響していたように思います。

 

合唱コンクールのピアノの伴奏でも、ピアノ伴奏が途中で止まってしまったら一貫の終わりで、すべてピアノ演奏者のせいになってしまいます。

 

どれ程、間違えたとしても、どれ程大きなミスをしてしまっても何であて「必ず最後まで弾ききる」ことをしなくてはならないのです。

 

ピアノで例えると「何があっても最後まで弾ききる」

この目的が無かったら、いちいち引っ掛かることになるし、心のダメージに引きずられその失敗が続くとなると「もうピアノなんて弾きたくない」と、「ピアノを弾く」という目的さえも出来ずに終わってしまいます。

 

何だったら「ピアノなんて嫌い」と、なる恐れもあるのではないかと思います。

 

 

合唱コンクールの時だけではなく、基本的に、途中で出来なくても弾けなくても、どこを弾いているのか分からなくなっても、「とにかく最後まで“弾ききる”」のです。

途中で止まってしまうことの減点はあまりに大きなものです。

 

 

精神面でも「なんとか最後まで弾けた!」と、ボロボロではあっても最後まで弾けたのなら途中のミスも、そこまで凹みまくることも、弾ききれたら合格点が取り合えず自分に付けられるのです。

 

「無視して進んで行く」

この感覚の「無視して進んで行く」というのは、ピアノだけではなく様々な場面で似たような場面に遭遇していると思います。

 

この「無視して進んで行く」ほどの武器は今の所は無いと私は思っています。

 

でも、もしここで「最後まで弾ききる」のように目的がないと、いちいち心が「あぁかな?」「こうだったかな?」と留まってしまうのです(>_<)

 

反省をするときは勿論、過去を振り返って「ここがダメだったから次はこうしよう」とか「次この失敗はしないようにしよう」とか役立てることは必要であるが、それ以外は「あーだったかな」「こうだったかな」と永遠のループにはまってしまってその度に気分が落ち込んでいってしまうのです。

 

時計とうなだれている人形

小さなことを気にしていられなくなる

それに“目的”があれば、いちいち人の言っているのことにも関心がなくなります。これは良い意味で、です。

 

よく“母は強し”とか言ったりもしますが、“子どもを育てる”という目的があるので若い頃みたいにいちいちいちいち気にしなくなっていくのです。

 

言い過ぎですがもうマリオカートのスター状態(産後鬱の場合は除く)のようなものです。

 

勿論、多きなショックことがあれば人間凹みますが、多少の事ならもう気にしていられなくなっていきます。

 

“子どもを育てる”という一大イベントに必死になって日々奮闘していて、“子どもを育てる”というところに意識が向いているので、他のしょうもないことは構っていられません。

 

どうても良くなるのです。

 

少し分かりにくかったかもしれませんが、これらのように、人間“目的”を持っていると、些細な事や重要度の低いことを排除する傾向にあると思うのです。

 

そのように人間作られているのではないかと思っています。

 

もし、○○さんから言われたことで凹んで凹んで…手に付かないという場合、タスクを何かしてそのタスクを大きくしてみて欲しいです。「凹むけどまぁ良いや」と思えたら成功です。

人は大きな課題、目的、成し遂げたいことがあればある程

また、“叶えたい夢”とかになると結構大層になってしまいますが、それでも、もし、夢なんて持っている人はメンタル的に見ても、とても健全で意欲的で活力に満ちマリカーのスターゲット時のようになっていると思います。

 

弱っている時はもう考え方もマイナスで且つ視野狭窄になってしまって、身動きできないように沼にはまってしまっているような感覚になると思いますが、そうなる前に何とか“目的”を持ったり成し遂げたい何かを持っていたりしていると、いつもなら30%にまでメンタルやられてしまうところが、「あれ?以外に心にグサッと来ない。弾き飛ばせ津。メンタルも80%までにしか落ちていない」と、いうように自分の武器となってくれるでしょう。

 

「忙しくてそれどころじゃない」というのも、ある一種救いの状態であると言えるかもしれませんね。

 

時間が無駄にあって、目的が無かったら結構何でも弾き飛ばせずにグサグサと心をやられてしまうかもしれませんね。

 

最後に

例をあげたのが分かりにくいものを例にあげてしまっていたかもしれません。

すみません。でも、何か伝わりましたでしょうか?(^^)

 

何か少しでも伝わっていたら良いなぁ~☆なんて思って書かせてもらいましたm(__)m

 

私は今でもまだ豆腐メンタルです。でも、この武器は「結構使えるな」と、いつも思っています。

 

何か気になって仕方がない、とか、自分の頭の中の想念に惑わされずに、“今ここ”で強うく生きるためには何かしら“目的”などを明確にしてそれに向かっていると、受動的ではなく、能動的になれるので、一度ウジウジ君になっている人はやってみて下さい。

 

野球のボールとかも「飛んでくるな飛んでくるな」と、思えばおどおどしてしまってミスが多くなるが、「よし!取ってやる!」「こっちに飛んで来い!」と思っていればちゃんとボールも取れたりしますしね。

 

能動的でいる事が良いのかな?

 

具体的な構造は分からないですが、能動的になるにしても、とにかく“目的”などを持って挑んでみて下さいm(__)m

 

お豆腐メンタルが生きて来て勝手に培った感覚ですm(__)m

 

参考になれば幸いです☆

 

ではこの辺で終わります。

読んで下さりありがとうございましたm(__)m

 

緑の樹々と木のベンチ

では、また☆