解離性障害の日々(闘病記録等)

思ったこと、関心事、気になること、病気のことなどをメインに日々つらつらと書いていきてたいと思っています。

生きるための足掻き

最近どうしたら自分が、命を落とさなかを常に考えている。

先程のブログにも書かせて頂いたのですが、今何かあるとすぐに命を絶とうと、もう無意識にしてしまっている。

自分が一瞬の不意に何かをしてしまわないか、怖くて堪らない。

もう、無意識というものに自分が持っていかれそうになっているので、「この世に命をなんとかおいておかないと」と、、足掻きに足掻いている。


一体どうしたら、死の誘惑に毎回打ち勝てるのか。


希死念慮とはまた違った感覚である。

もう無意識にピョンッ飛び降りて死んでしまいそうな。


震災から28年とのことであるが、そんな時にこんな文章を。とは思うが、私自身阪神淡路大震災の被災者である。


そのことも、近々発信できらと思うが、今回はそのような生かされている人生だからこそ、このまま死んでしまわないように“生”に何があっても執着したいと思う。

川辺と冬景色

私は、解離をしてしまった20代前半の頃から、山のよう人間の“生”そのものや“生きる”ということをずっと考えて来た気がする。
 
人間なら大体考える人が多いとは思うが、私の場合、解離によって更に混乱させられていた気がする。
 
また、解離の感覚だろうと思うが、“生きている”ということに自分がカチッとハマっていないようで、「何か変、何か変」と大きな書店に行っては、自分が一体何なのか、人生とは何か、自分は一体何が起こっているのか・・・
 
 
と、要点が2つ混ざってしまったが(;^_^A
①生き方の問題(「生きるということはどういうことなのか、“生”とは何か」)
②自分に病気についての問題(「私は一体何が起こっているのか?何が変なのか?どうなっているのか?」)
 
この2点が混ざってしまったが、このような事を書店で色んな本を数年間、読み漁った。
 
 
なので、結構変わった本も読んだりしてきた方だと思う。スピリチュアル的な本から、仏教、キリスト教、哲学等々、手当たり次第本を読んで来た。
 
勿論自己啓発本なども結構読んで来たと思っている。
 
 
結構長い間、自分の病気が判明するまでは、この先に示したこの2点の内容について悩んできたと思う。
 
 
そしてカウンセリングも8年間も行ってきて、散々、社会や実務的なことよりも、“心”や“目に見えない分野”に引っ掛かってきてしまって。
 
結局は“空”だ、とか、大体同じような内容を言っているな…とか、その頃は分かってきていたような気になっていた。
 
タイトルと少し内容を見ただけで、「はぁ、この切り口できたのね」なんて偉い鼻高おじさんになっていたと今ならそう思う。
 
 
 
だけど、最近はこのような悩みから、「一歩踏み込む」と言うのか、結局どうだったのか、分かっていそうで分かっていなかったような気がしている。
 
 
なぜ?って、「生きる」とは、結局十人十色というのか、一人一人がいかように思うが、その人が正しいと思ったものが正解な世界であって。また、一人一人に役割があると言ったり、また何も無くても良くて、好きなように生きて満足するのならそのように生きたら良くて、何でもありな世界な訳で。
 
酷い文章になってしまったが、とにかく、生き方等は、資質というものがあるし考え方も性格も人それぞれだし、育った環境や、生きて来た過程のども、人ソロぞれであるし。
 
一個人の中だけでも、こんな場面の時もあるし、こんな場面の時もあるし、、。
 
と、一定と思っても“一定である物なんてない”、この世は移ろい変わりゆくものであって・・・云々。
 
 
そのように、その時々によって正解と思う物も、場面や立場や環境や縁によってそれぞれ違って居たりするし・・・
 
 
 
そんなもの(移り変わっているもの)に、「これだ!」と、答えを決めるのが、そもそもおかしな話ではないか?と、いうことであって。
 
 
と、こんなにも分かりにくい内容で申し訳ないですが、とにかく、その時々で「正解だ」と、思うものを大切にすればよい訳で。
 
 
 
 
 
・・・。
 
 
で、なのである。
 
 
なので、こんなにもあぶくのようにいつかは形を変え消えていくようなものを、一生涯もっていられるかとは分からないものであって。
 
 
・・・。
いやいや。自分で言っておいて訳が分からないくなってきましたが。(笑)兎に角、その時々で何かキャッチするものがあるならば、キャッチはしておきたいけど、「全ては縁」というのかな。
 
縁なのだから、その時自分が「何となくこれ!」と、思うものを大切にするというのかな・・・。
 
 
“絶対”という言葉がないように、全ては縁でいかようにも変わるのだから、その時々の自分の感覚を正解とするというのか・・・。
 

一つの泡、シャボン玉

 

でも、最近思うのがオーストリアの精神科医、『夜と霧』『人生にそれでもイエスと言う』で、有名なビクトール・フランクルの言葉に私は今、気になっている。
 
 
「人生には役割がある、待っている人が居る、私たちは人生から問われている」と言ったような発言を残しているユダヤ人の強制収容所体験をもとに精神のことについて語ってくれている精神科医だが、私はこの「人生からの問い」に答えられていない。
 
 
何かずっと引っ掛かっているけど答えが出せないでいるので、未回答だからか、ずっとこのことが気になっている。
 
 
ここに私の生きる支えとなるものがあるのだろうか?
 
 
分からないが、何かずっと気になっている。
 

雪の結晶

 
 
そして、それ以外に私は、どのようにしたら生き延びられるのかもずーっと考えているが、理想とする人や、目標があればいいいのかな?やっぱり夢があれば良いのか?「好きな事」を私は毛嫌いしいてきたが、カウンセラーさんが言うように「好きな事」って案外人間にとって、かなり大切なものだったのではないか?とか、亡き祖父母やしっくりくる神社仏閣が助けてくれるのか?と、思ったり、何か名言を読んでみたり、お経を唱えてみたり、南無阿弥陀仏を唱えてみたり、聖書を読んでみたり・・・。
 
 
大切な人がこの世に居れば私は死を選ばずに済むのかな?「大義名分」を挙げて今は自分の人生と直視しない方がいいのかな?でも、自分の人生と対峙出来なくて、何が「大義名分だ」と、思ったり。


愛が一番なのか?自分が大事か?他人が大事か?
 
一体何なんだ。


 
と。酷い足掻きようですよね。数年前に一度この問いには「もう何となく分かったから」と、思っていたのに自分が実際に追い込まれてしまうと、こんなにもジタバタバタバタとバタ付き、生きる為に中身の無い頭がフル回転していて。このように、ありとあらゆることをして足掻きに足掻いている。
 
 
笑えるくらいぐっだぐだですみません(;^_^A
 
もう頭の中が生きる為に必死過ぎて(;^_^A
パンク寸前です。笑汗
 
取り留めのない話を、長々とすみませんでした。
 
で?って話ばかりで、このような問いって結局難しいですよね。


退院してからがとても怖いです。「どうか、“生”を選択しますように」と言うことで、今回はこのようなところで終わりにしようかと思いますm(__)m
 
だいぶ吐き出すと頭の中がクリアになって来た気がします。
 
本日も残り僅かですがファイトです!!
 
 

綺麗な夕日と海辺

ありがとうございましたm(__)m
ではまた☆