今日もダラダラと書いていこうと思う。本当は今日の朝方とか、全く日記を書く気分ではなかった。今日は90%ほど書く気はなかったけど、結局なんの心の変化なのか、昼寝をしたからか、今、夜になって書く気になって来た。
やっぱり「書こう」と、思うのはしつこいけど、内村鑑三氏が“書くこと”を推奨していたからであり、どうやら内村は“書くこと”で自分も分からなかったどこかに連れて行ってもらえるから“思ったことを書いた方が良い”と、言っていたのだ。
で、私もそうしたら書いてみよう!と、思って最近ちょくちょく書くようになったという内村にかなり影響を受けてしまっている一人である。
まぁ、書く練習になるし、今私自身書くこと以外に出来ることが思い浮かばないということもある。読書するか書くかYouTubeを観るかボイシーを聴くか、スタディアプリを聴くか。それくらいしかすることがない。あ、後新聞を見るととかかな。
どちらにしても、そんなに大そうなことなんて全くしていない。
入院中だからというのもあるけれど・・・でも、後は散歩したり院内に買いものに行ったりするくらいでなんにもないんだよね。
最近は天皇関連の本と、『銃・病原菌・鉄』という本を読んでいる。後、気分が何だか乗らない時は『プラハの春』という本を読んでいる。
プラハの春も面白い。ハラハラドキドキするし、ノンフィクションだったのじゃないかな。読みだすと止まらない。面白い。
また、本もおすすめ出来る内容だったら、紹介しようと思う。
読書も良いよね。読みたい本が山のようにあるから、読むとき焦ることがある。💦笑
でも、ゆっくり読んでいきたいと思う。
小説なんて書ける人凄いよなぁ~。羨ましい。あんなにも、人の心を掴む内容が書けるなんて。どこでどう違ったらそうなったのか。(;^_^
私も小説とか書いてみたいな。( ̄ー ̄)ニヤリ
どこかで小説を書く教室みたいなのとかないのかな。。。でも、私には俳句くらいでちょうど良いのだろうな。
俳句も詠めないからな💦
何か練習してみたいな。
心の冷たい人間だと、やっぱり俳句もへたくそなのかな?
心の機微を絶妙に感じ取り詩にしないといけないもんな。慌てた生活なんてしていたら、心を忘れているので全く思いつかないのだろうな。
いつか私も詠えるようになりたい。
って、それはさておき、今日は3.11だったんだよね。忘れてはいけない日。
もう12年も前になるのだね。この時も私はもう既に解離になっていて、変な感覚だったんだよなぁ。
しかも、私は偶然にも、12年前の3.11の日はハワイのハワイ島にいたんだよね。だから、日本にいなかっただけに、皆と味わった感覚は違うと思う。ジャパンデンジャラス!!って英語で書かれていて、映画を見ているかと思った。食事で持ち帰りのご飯を買いに行っている店のテレビで津波の映像を観た。周りの人もすごく悲惨そうな顔で開いた口を手で覆っていた。
ホテルに帰ると、皆英語で何か言っているけれど、何を言っているのか分からなくて。でも、何か騒々しくて何かがあったことは雰囲気で伝わった。すると、ホテルの受付の人が片言の日本語で説明していたのと、同じように日本人の方も何人か同じホテルに泊まっていたので、情報を共有した。
どうやらその私経ちの泊まっていたホテルも避難地域に入っていたらしい。だから皆避難しようとしていた。荷物を纏めてキャリーバックを持ってロビーに集まっていた。
でも、私はバカだから、「日本で地震があったのにどうしてハワイ島にいる私達まで避難しないといけないの?」と、バカ丸出しで、津波がハワイ島まで来ることを分かっていなかった。
そして、避難取り敢えずしなくてはならなかったのだが、私達はレンタカーを借りて車で移動していたので、車ごと避難しないといけなかった。ホテル自体が避難区域内なのでホテルの人全員避難しなればならなかったのでとにかく大変だった。
しかも、どこまでが避難区域内なのか、そこら中に警察はいるけど、言葉が分からないので、ジェスチャーを読み取って後は皆の車の流れに合流して、かろうじで高台のような場所にこれた。
ホテルにはその日はもう帰ることが出来ないので、車内で寝泊まりをした。車を停めた場所は何か一階のみのショッピングモールの駐車場のような所に停めた。それもやっとこさ停めれたという感じだった。
でも、ガソリンもそんなに入っていない。はじめは「いつか避難も解除になるだろう」と、思っていたのでそんなにとにかく避難できたことがもう安堵で、ずーっと時間が過ぎていくのを待っていた。
ハワイ島だったこともあり、尚且つ車で移動というのはそんなことをする日本人は珍しかったのか、そのショッピングモールのような場所の駐車場には日本人は私達以外に誰も居なかったと思う。
もう夜も暗かったが、見渡す限り外人だらけだった。
そして、いっこうにだけもその駐車場から出ようとなんてしなかった。私達も見様見真似で同じ行動を取っていた。それにしても、すぐに帰れると思っていたが、なっかなか誰も帰る人なんていなかったし、だんだんと皆車の中で眠り始めていた。
私は友人と女2人で、車に乗っていたけれども、ガソリンのことも気になるしハワイ島は寒かったのか、エンジンをつけたり消したりしていた。
もう避難して何時間も経っている。お手洗いに行くときも怖いので一人が行きたいだけの時も一緒に二人で行動をしていた。トイレもかなり並んでいる。体格の良い外人は女性であっても迫力あるし、お手洗いを並ぶ時にじーっとぼーっとしていると何か距離が近いし喋りかけられそうだし、怖かったことを覚えている。
避難できたのは良いけど、ガソリンがないのと、夜中に、友人は私を起こしてお手洗いに行くので、寝ては起こされ寝ては起こされ・・・と、なかなか眠ることは出来なかった。友人も同じだったと思う。
そして、何とか一晩駐車場で過ごし、次の日になると、ホテルの避難区域が解除されていたので、ホテルに戻った。
何とか一件落着だった。怖い一晩だった。友人がいてくれて本当に心強かった。ひとりだったら、どうなっていただろうかと、恐ろしくなる。
で、ホテルに翌日戻ったが、その日はもうどの店も津波の影響がハワイ島にも来ていて、お店が軽く浸水してしまっていたのでしまっていた。午後からは開いていたかもしれないが忘れた。
でも、その次の日か?日本で津波で多くの方が流され被害を被ったということで、何か大通りでパレードがあったのだが、そのパレードの始まりは「日本頑張れ!!」というボードを何にか持ってそこからパレードが始まった。
「日本頑張れ!!」って皆拍手もしてくれていたし、私達日本人と分かったのか、私達に向かって拍手をしてくれる人も居た。
涙が出そうだった。
私は日本で何が起こっているのか、母親と連絡をして知ったくらいで大変なことになったということくらいしか知らなかったが、でも、ごはんを買いにい行った先でテレビを観たので、相当大変なことが起こっていることは分かった。
そんな中、私たちも怖くて張りつめているものがあったからなのか、全く関係のない土地の人が翌日が翌々日か忘れたがパレードで「日本頑張れ!!」って。
そして、皆拍手をしてくれて。
感極まるし、日本人にもっと他国民の人があの「3.11」の時に異国地で・・・。日本のことを応援してくれていたことを少しの人にでも伝わればと思う。
人間って不思議だな。と、思った。
日本のことを頑張れってパレードの前に入れてくれて。
戦時下では日本はハワイ島に散々なことをしているのに、ハワイ国民はそんな日本でも「頑張れ」ってわざわざ垂れ幕ではないけれど、何かプラカートのようなものに日本語で書いてくれて。
堪らなく感動した。
底知れない悲しみに合った人のことを思うと、こんなおバカな発言で申し訳なく思うが、私の体験した12年前の3.11は日本の外であったが「日本頑張れ!!」って励ましてくれていた。
皆拍手をして応援をしてくれいた。
応援してくれていたのは日本人だけではないことをほんの少しでも良いので伝わればと思うし、同じ目遭った時は日本も、躊躇することなく他国であっても応援して「頑張れ!!」って応援してあげられる国でいて欲しい。
まだまだ、風評被害だなんだと、復興しきれていない部分が多々あるけども、私も自分事として考えて、これからも忘れないでいたいと思う。何が自分に出来るのか考え続けることだけでも放棄せず、一緒に考えていきたいと思う。
長くなりましたが、本日はこの辺りで終わりにしようと思いますm(__)m
ありがとうございましたm(__)m
頑張ろう、日本!!
では☆