解離性障害の日々(闘病記録等)

思ったこと、関心事、気になること、病気のことなどをメインに日々つらつらと書いていきてたいと思っています。

私の阪神淡路大震災1/17

少し遅れてしまいましが、どうしても1/17の28年前の阪神淡路大震災の当時のことを書いておきたいと思って、今記録してる。

 

意気込んで書くと大したことが更に書けなくなるので、好きなように方の荷を下ろしてつらつらと書いていこうと思う。

 

 

私自身28年前阪神淡路大震災を経験している。

 

しかし小学校中学年くらいだったので、記憶という記憶は大人よりはない。

 

あの時・・・

 

私はあの28年前の震災の時、二階ベッドの上の段で寝ていたと思う。ベッドの下の段には、2つ上の兄が寝ていたと思う。

 

もうこの記憶もどちらが上だったのかはっきりと思い出せ無くなっている。

 

が、両親とは別の部屋で寝ていたので、両親が「大丈夫か?」「大丈夫か?」と私と兄に向っていうし、呼ぶだけで来てくれないので、私と兄は両親の寝ている和室へと歩いていった。

 

実際震災時刻は明け方5時46分52秒。なのでこの時もまた部屋は真暗だし、停電で電気は付かない、そんな状況だった。そして暗闇の中、私は兄のパジャマの後ろの裾を掴み、まだ揺れも収まっていないのに、兄の後ろで揺れながら両親の居る部屋に行った。

 

寝ていたベッドには、メガホンが上から降ってきたのと、兄の頭の近くに置時計が落ちて来た位だったと思う。足元は色々散乱していたと思うが、真暗で何も見えなかった。

 

始め、

地震が来たとき、私は「夢の中で友人の車に乗って砂利の上をユラユラしながら進んでいる」という夢だった。友だちのおじちゃんに車でどこかへ遊びにでも連れて行って貰っているような内容の夢だったと思う。でも、何秒間か経ってかた目が覚めて、起きても揺れているので、これが何なのか分からなかったけど、異常で怖いことは分かった。(実際の揺れは約 15秒間

 

そして兄も目を覚ましていたので、一緒に両親の所へ行けた。

 

そして父親は玄関の鍵が開くかどうかを揺れが終わってから割とすぐに確認しに行っていた。玄関のカギは開いたので、そこでマンションの住民の人同士で話を何が起こっているのか、親たちは話をしていたと思う。

 

もう、この頃は私は見えなかったが、荷物と言う荷物が全て食器などからも何から放り出されてお皿や食器類はほぼ全滅で床に全て散らばっていたらしい。

 

私と兄は自信の揺れが止まると、住んでいるマンションの1階でマンションを囲むように駐車場があるのだが、そこに止めていた車に乗って、近所の中の良い友達や家族が集まって皆で車内で数日間過ごした。

 

電気ガス水道は勿論断たれている。近くの公園まで水を汲みに皆行っていたと思う。

 

水を汲みにいくのも大変だったので食器を洗わなくて済むように、お皿にそれぞれサランラップを敷いてその上でお皿を洗わなくて良いようにして色々工夫しながら、4日~1週間程?は、もう常に車内に居たと思う。車内が家代わりみたいになっていて、その間に両親は部屋の掃除に取り掛かっていた。

 

なので、私たち子ども組は正直車内に兄と友人兄弟の4人でトランプをしたり、何かずーっと遊んでいたと思う。

 

もう、変に家に入ったりして、ガラスも飛び散っているのに、怪我をしたら危ないからと、いうことで常に車内で遊んでいた。

 

学校が再開したのも結構地震が起きてからだいぶ経ってからだったと思う。

 

友人はタンスに潰され斜め後ろが見えなくなっていたり、何か怪我をした人はチラホラいた。私学年では亡くなったという人は居なかったと思う。が家の損壊は酷かったと思う。

 

私の住んでいたところは10回以上建てのマンションで、結構その付近は同じような建物の住宅街であったが、私のマンションの人でも、最上階の人とかは揺れが1階とは全く違う程激しく、お風呂の窯とかが取れてお風呂事揺れていたと言っていたし、上階へ行けば行くほど、被害の程度も甚大なものになっていっていた。

 

私の階は半部よりは下方なので壁のひび割れ位で済んだが、かなり大きくあちこちにひび割れは起こっている。

 

でも、本当に皆命があってよかったと思っている。

 

しかし、私のその被災した家の近くの公園では毎年1/16(夕方)になると灯籠に火を灯し祈りを捧げる取組がなされている。犠牲者と同じ数の6434本のろうそくが今年も灯されたそうだ。

 

長田や宝塚や色んな場所で催しが成されている。地震があったのは朝5時46分だが、コロナの影響で12時間前に黙祷をしているようだ。全ての会場で同じかは分からないが今は12間前黙祷が主になって来ているように思う。

 

私にとって、震災とはここまでが震災ではない。

やはり、震災をした地では転校をしてしまった人がいる。

当時は小学生だったし、携帯なんて無い時代だったから、沢山のお別れをした。

 

大切な大切な友達を沢山失ってしまった。決して亡くなった訳ではない。

だけど、私の大切な友達を次々と失ったのは、私の人生、大きな喪失感だったし、ここで大切な友達と沢山離れなければ、私は両親ではなく、町や地域に育てられた部分が大きいと思うので、私の崩壊はこのころから影を潜めていたのだと思う。

 

後々、失ったものの大きさを痛感し、自分も遠い形、間接的ではありますが、少しは震災を経験したうちの一人なのかとしんみり思ったし、そして今も、私は震災の付近に住んでいるので、やはり1/17は私にとって忘れることの出来ない出来事であったと思っている。“被災した”というと、本当に家族を失ったり、障害を抱えてしまった方に申し訳なさすぎるので、「震災を経験した」に留めさせて頂きます。

 

ふざけている気はありません。そして、今後も、この震災から生き残された身として、これからも生きている限りは何か発信したり、考え思いめぐらせ、せめて手を合わせご冥福をお祈りさせて頂こうと思います。

 

震災の日から時間が経ってしまいましたが、どうしても気になったので風化されないように、一人でもこの声がどこか届くように発信させて頂きました。

 

そして、これからもこの天災の多い日本で、教訓を生かし、常に最悪を想定して普段から災害が起きが時の予防策をし、一人でも救える命を犠牲にしないように心掛けていきたいものですね。

では、本日はこの辺で終わろうと思います。

 

ご一読下さり、有難うございました。

 

では、失礼します。